池上正樹×斎藤環が語る、「たとえお節介でも、ひきこもりを指摘し続けるべき理由」
ジャーナリスト池上正樹×精神科医斎藤環の対談(3/3)
そこで対談最終回となる今回は、これらの課題をどう捉えるかを提案していただきます。
◆「ひきこもり」を啓蒙し続ける理由
池上 そもそも「ひきこもり」と呼ばれてきた人たちは長年、「沈黙の言語」という言葉があるくらい、社会に発信してこなかったし、むしろ地域に埋もれて周囲の人目を避けてきた、姿の見えない存在でした。いわば、社会に存在していなかったことにされてきた人たちともいえます。そうした“闇”の部分にも光を照らして、助けを求めている人がいるとすれば、きちんと課題を見えるようにしないといけないと思っています。
ひきこもる女性の存在についても、きっとそうだったと思うんですよね。見えなかったものについて、きちんとデータをとるなり、調査をして検証するということを、この国はやってこなかった。該当者から「家事手伝いや主婦は除く」といったように除外してきてしまったがゆえに課題が見えてこなかった。やっぱり、きちんと闇ではなくて、見えるようにして検証していくということが必要なのではないでしょうか。
斎藤 一貫して、それは考えています。ひきこもりという言葉を言いすぎると、疾病喧伝ではないですが、そういうレッテルを増やしてしまうというか、当該の問題を増やしてしまうんじゃないかとよく言われます。けれどもひきこもりって、放っておくとすぐに見えなくなっちゃうんですよ。多くの人にとっては、身の回りにいないから実感のない問題だったりするわけで、指摘し続けないとその存在すら透明化してしまう。
もちろん当事者や家族にとっても、隠しておきたい問題であるということもある。ひところのブームは去りましたが、これからも定期的にメディアで発信していかないと、関心が維持できないという側面があります。
なので、こういう本『ひきこもる女性たち』が出たりとか、イベントが開かれたりとかそういうかたちで注意喚起が進むことは必要なことだしありがたいと思っています。特に女性の問題は、ひきこもり問題の影の部分だろうと思うので、女性が抱えている問題を考慮した支援の形態を考えるきっかけになってくれればなと。
池上 僕も一時、「ひきこもり」という言葉を使うことも、レッテル貼りに加担するのではないかと思い、悩んで自重していたこともありました。しかし、こうやって記事を発信していると、ひきこもる当事者側から「言ってもらえてよかった」とか「他にも自分と同じような人がいることがわかって勇気が出た」といった嬉しい反応に直に触れるようになりました。インターネットの時代になったからですね。むしろ、そうした多くの読者に励まされ、あるときは突き上げられるようにして、それぞれの方々の思いや気持ちを伝える役割を、気づいたら担っていたという感覚です。
斎藤 池上さんはこれまでの経験から、どういう枠組みの支援があればより多くの女性が参加しやすくなると思いますか。
池上 安心できる場ですかね。
斎藤 女性だけの場ですか。
池上 そういう場に行っても男性ばっかりだろうとか、男性の問題だろうとか念頭にあって行かなかった方たちの声を聞いていると、女性も行っていいんだという場だと結構行くのかなと。先ほども申し上げた、「ひきこもりフューチャーセッション庵IORI」で「母と娘」というテーマであれだけ人数が来る、そして継続してやってほしいという話を聞くと、意識的なそういう場づくりが必要かと思いました。
斎藤 そういうテーマ、母と娘をテーマにした自助グループもいいですよね。それを作って、ひきこもりか否かにかかわらず、母娘で生きづらい人はどうぞ、と。
池上 また女性の人は、男性に比べると感情が先に出ちゃうというか。涙がぽろぽろ出ちゃうとか、言葉にしようと思うとなかなか言語化できない人が多い印象なので、第三者が言語化する作業も必要かと思います。
斎藤 母娘問題が典型で、指摘されるまで気づきませんでしたという人がすごく多いんですね。親を批判して良いし、親の責任を問うていいんだ、とやっと気づく。こういう気付きが救済のきっかけになるので、啓蒙の力というのは大事だなと思わざるを得ません。ある程度カウンター的に強烈な言葉を使わないと、認識すらされない。
池上 こういう話を発信すると、「あ、これは私のことだ」って気づいて、勢いで「書いちゃいました」とアプローチしてくる人もいます。だから、当事者たちに届くような情報発信と、当事者の求めているコミュニティの場づくりって、結構大事だと思いますね。
斎藤 そうですね、結びつけば非常に力を持つと思います。
池上 あとは誰がやるか。安心できる人が中心にいないと、これ行政がやるとまた……。